最近の記念館でのイベント等から
- 2014/03/12
- 06:46
早いものでもう3月も半ば。春ももうすぐです。
冬の間は比較的静かであった記念館も春の訪れと共にまた少しづつ活気が増しています。先週末にはいくつもの関連イベントも開催。今日はそれらのイベントの様子等については、当方が個人配信している「満蒙開拓つれづれ草」NO.62で触れていますので、以下に添付させて頂きます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「満蒙開拓つれづれ草」 NO.62 (平成26年3月10日)
~ 記念館での先週末のイベント等について ~
3月ももう10日というのに今朝はまたマイナス5度の寒さ。半月前の大雪ももうほとんど溶けていたのですが、今朝は我が増野も10センチほどの積雪でした。南信州の春はもう少し先のようです。
さて、先週末、記念館はイベント続き。私もその対応等で追われっ放しでした。
まずは7日(金)には以前にも取り上げさせて頂いた「方正友好交流の会(※)」、その企画によるツアーの皆さん一行が来館。同会の企画、そして富士国際旅行社の扱いで35名の皆さんが大型バス1台で来館されました。主には関東近辺の皆さんですが、中には遠く福岡や京都などからご参加の皆さんも。
※.旧満州で唯一建立が許可されたハルピン市郊外の「方正日本人公墓」を支援する日本国内では唯一の民間有志団体です。
当方も理事の末席を汚させて頂いている同会の皆さんだけに、この「つれづれ草」を転送等もして頂いている大類善啓事務局長を始め顔なじみの会員の皆さんも多く、またツアー趣旨に賛同されて参加された皆さんの中にも以前からメールでやり取りさせて頂いたり、この「つれづれ草」をお読み頂いている方など、初めてお会い出来た方もあり、大変、多士済々の顔ぶればかりのツアー一行の皆さんでした。
東京新宿を朝7時半に出て、約5時間を要して記念館にお着きになった皆さんは、早速館内へ。まずは当方から記念館建設経過等のお話を、続いて元泰阜村開拓団員の「語り部」中島多鶴(なかじま・たづる)さんのお話をお聞き頂きました。その後、当方のガイドで館内展示を見て頂き、皆さん大変熱心に展示等をご覧になっておられました。
御一行は夜は阿智村内にある昼神(ひるがみ)温泉に投宿。夕食交流会には当方も参加させて頂き、皆さんの今日の感想やご自分の戦争体験、平和等に対する思いなどいろいろなお話をお聞きすることが出来ました。
翌8日、御一行は記念館から歩いて5分ほどの「長岳寺」へ。ここはあの「残留孤児の父」とも呼ばれた故山本慈昭翁が住職をお勤めになっていたお寺です。御一行はここで現住職の入(はいる)御住職よりお寺の由緒と慈昭翁のことについて説話を頂きました。この長岳寺はかの武田信玄を火葬した場所(諸説あり)とも言われており、その火葬した灰を祀ったという灰塚や、多くの犠牲を出した満州「哈達河(はたほ)」開拓団の慰霊碑等もあります。
続いて一行は中央高速にて松川町の我が「増野」へ。満州等から引き揚げた開拓者らの戦後入植地の一例として「増野開拓地」を見て頂くというのも今回のツアー目的の一つでした。当方の案内にてバスの車窓から、そして我が家の近くで下車して頂いて増野開拓地やここから望む伊那谷、3千m級の山並みが並ぶ南アルプス(赤石山脈)を眺めて頂きました。前日も含めてとても良い天気で、白く雪化粧した山々も綺麗に見て頂くことが出来ました。皆さんの日頃の行いがとても宜しかったようです。
その後、増野会所(公民館)で、戦後における開拓事業と増野の開拓について当方からお話をさせて頂きました。この席には、かつて30戸で発足した増野原開拓農業協同組合を継承する「増野開拓組合」の組合長さんや開拓2世の方、また増野開拓の後継者等で経営する「まし野ワイン」の関係者などにも参加して頂き、「まし野ワイン」や「まし野リンゴジュース」を試飲して頂きながら、後継者の皆さんの農業や地域への熱い思いに耳を傾け、意見交換等をして頂くことが出来ました。
ご一行は最後に開拓2世らが経営(当方も役員です)する「まし野ワイナリー」に立ち寄り、お土産としてワインやジュースなどを沢山お買い上げ頂いて帰途に着かれました。昨日、今日と何人かのご参加者の方からご感想など頂きましたが、記念館も増野もどちらも大変満足して頂いたということにて、現地ガイド?を勤めた当方としてもホッと一安心というところです。
「まし野ワイナリー」へと向かう皆さんとお別れし、当方は昼過ぎには再び高速で阿智村にトンボ帰り。「阿智村コミュニティーセンター」を会場として、長崎大学の主催により開催された国際シンポジウム「東アジアにおける歴史記憶の共生と研究実践」にそのパネラーとして参加いたしました。
長崎大学主催のシンポがどうして阿智村で?と怪訝に思われる向きもあるでしょうが、今回の企画の主体となった同大学の南誠助教は、実はこの阿智村の近くの平谷村出身の中国残留婦人のお孫さんに当る方です。子供の頃には2年間ほど当地にて暮らされ、京都大学の大学院を出た後、2年前から長崎大学で教鞭を取られています。当方とはもう15年ほど前からの友人であり、一緒に葫蘆島(ころとう)を訪ねたこともあり、また早い段階から当記念館にもいろいろと御助力頂いている方でもあります。
そんなご縁もあって、南助教は今回、当記念館が建てられたこと等も含め、この阿智村でのシンポをと企画された次第でした。長崎大学の先生方や、中国や台湾からも5~6人の研究者が参加され国際色豊かなシンポでした。
このシンポ、一般公開ではありましたが、周知等が余り十分では無かったこと、また記念館の方も各種イベント等が重なっていた時期であったこと等から参加者はやや少なかったものの、しかし、内容次第は極めて高度で有意義な内容のものでした。
最初に基調講演として中国社会科学院の孫歌(そんか)先生が、「感情記憶における日中関係」として題して講演されたお話は本当に流暢な日本語で、極めて内容の濃い、高度で、それでいて分かり易い内容のもので、当方も一同もみな深い感銘を受けました。孫歌先生は、この日の午前中にご覧になった当記念館についても高い評価をして頂き、その成功の原因、背景について実に極めて的確な分析をして頂いたことには当方も本当に感嘆するばかりでした。
その後、中国側の3人の研究者の先生方が発表され、最後に当方から「満蒙開拓記念館の建設の経過と趣旨」等についてお話させて頂きました。その冒頭の発表者であった石金かい(木へんに皆)さんは一昨年夏からハルピンのあの「731部隊資料館」の中に設けられた「中国人養父母資料陳列館」の運営に主として関わっていた方であり、当方とも手紙等やり取りさせて頂いた方でもあります。
石さんは今年2月から、残留孤児でもある奥さんと共に来日され、現在は所沢市にある「中国帰国者センター」で研修中です。その石さんからは、「中国人養父母資料陳列館」を立ち上げるためのご苦労やその現状等についての貴重な報告がありました。この記念館、非常に貴重な施設であり、当方もいずれ一度は訪れたいものと思っています。
また、石さん以外のお二人の中国研究者の先生方の発表は全て日本語にてであり、いずれも戦争記憶に関わる研究等について興味有る内容の濃い報告をして頂きました。そして、最後の当方からの報告については孫歌先生始め出席の先生方から当記念館の設立意義の高さ等も含めての賞賛のお言葉を頂いたことは本当にありがたい限りでした。
この夜には飯田市内にて懇親会が設けられ、中国や台湾の研究者の先生方、長崎大学の先生方等とも懇親を深め、今後、共に国境を越えて、平和の実現に向けての共同研究活動を進めていくことを約させて頂いたことも含め、極めて内容の濃い意義有る国際シンポジウムでした。
そして、昨日9日の午後には「阿智村公民館」にて、今夏製作されることとなった映画「望郷の鐘」の監督・山田火砂子さんを迎えてのトークショーが行われました。会場には阿智村の皆さんなど100名近い聴衆の皆さんが参加されました。
この映画は前出の山本慈昭翁を主人公として書かれた児童向け図書「望郷の鐘」(原作・和田登さん)を映画化するもので、監督は映画「はだしのゲン」などを撮られている山田火砂子監督。その山田監督からご自身の戦争体験や今回の映画を撮られることとなった思い等について語って頂いた後、先月で阿智村村長を退かれた岡庭一雄前村長、そして進行役として記念館のボランティア団体「ピースラボ」代表の木村多喜子さんの3人によるパネルディスカッションが繰り広げられました。
そして、その最後の総括として当方からは、今回、満蒙開拓を正面から取り上げた本格的な映画が作られるのは多分は初めてのことであろうかと思いますが、このテーマを取り上げることの難しさと、これに立ち向かうことの「覚悟」とを、当記念館の設立の経緯、背景等も絡めながらお話させて頂きました。
これまで「不都合な史実」として余り前向きには取り上げてこられなかった「満蒙開拓」をテーマとすることの「覚悟」は記念館設立にも、そして今回の映画にも通ずるものであり、そして山本慈昭翁の体験を通じて満蒙開拓を取り上げるということは挑戦でもあり、冒険でもあると思います。
実は、慈昭翁は残留孤児の支援等に懸命に取り組まれましたが、その原因となった「満蒙開拓」の背景や問題点等については生前ほとんど触れることは無かったと言います。たぶんは、それを言い出すと、開拓団を送り出した国の責任や、あるいは中国人民を刺激すること等ともなり、一番の目的である残留孤児の支援に支障を来すからと思われていたのだと思います。
そして、残留孤児の問題だけに注力して取り組むために、設立当初にはその事務局長として関わった飯田日中友好協会の前身の日中友好協会下伊那支部からも袂を分かって、自ら残留孤児に特化した「日中友好手をつなぐ会」を立ち上げてその帰国支援活動に奔走されました。
その「日中友好手をつなぐ会」も慈昭翁が亡くなり、また残留孤児等の帰国もほとんど無くなり、会員の高齢化等もあって数年前に解散してしまいました。会員の皆さんの中には「阿智村に山本慈昭記念館を」という思いもあったのですが、会員も減少、資金的にも困難な中で、阿智村での建設が具体化していた当記念館構想の中に併合することとなり、記念館内の一室に慈昭翁の顕彰も含めての残留邦人コーナーを設けることによりその遺志を引き継ぐことが果たされることになりました。
そして、今回の山田監督による「望郷の鐘」は、慈昭翁自身も生前はほとんど触れてはいなかった満蒙開拓の複雑な問題等に対する思いを映画の中で語らせるという挑戦であり冒険でもあると思います。そして、そのことに対する「覚悟」もきっと山田監督はお持ちなのだろうと思います。実は山田監督には以前にお手紙でこういった思いも伝えさせて頂いていたところでした。
これまで満州や満蒙開拓を取り上げた映画等は少なからずありました。例えば、ドキュメンタリー映画としては羽田澄子監督の「嗚呼、満蒙開拓団」や、青少年義勇軍を取り上げたアニメ「青い記憶」、あるいはなかにし礼さん原作の「赤い月」などもありました。しかし、今回の「望郷の鐘」のように満蒙開拓を正面から取り上げた本格的な映画は初めてのことであろうと思います。
既に内定している配役等も、まだインターネット等では明かせないのは残念ですが(実は会場では公表)、「えっ!”」というような素晴らしい顔ぶれの皆さんばかりです。発表は3月20日頃とのことなので、その頃にはまたこの「つれづれ草」でも取り上げさせて頂けると思います。
以上、いくつものイベントが盛り沢山であった先週末。大変有意義な3日間ではありましたが、いつもの通り当方の本業の仕事もベタ遅れ。今夜も事務所に泊まり込んでの仕事になります。明日の朝は飯田もまたマイナス7度前後の寒さになると言っています。まだ春遠しです。
(満蒙開拓平和記念館 専務理事 寺沢秀文)
冬の間は比較的静かであった記念館も春の訪れと共にまた少しづつ活気が増しています。先週末にはいくつもの関連イベントも開催。今日はそれらのイベントの様子等については、当方が個人配信している「満蒙開拓つれづれ草」NO.62で触れていますので、以下に添付させて頂きます。
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「満蒙開拓つれづれ草」 NO.62 (平成26年3月10日)
~ 記念館での先週末のイベント等について ~
3月ももう10日というのに今朝はまたマイナス5度の寒さ。半月前の大雪ももうほとんど溶けていたのですが、今朝は我が増野も10センチほどの積雪でした。南信州の春はもう少し先のようです。
さて、先週末、記念館はイベント続き。私もその対応等で追われっ放しでした。
まずは7日(金)には以前にも取り上げさせて頂いた「方正友好交流の会(※)」、その企画によるツアーの皆さん一行が来館。同会の企画、そして富士国際旅行社の扱いで35名の皆さんが大型バス1台で来館されました。主には関東近辺の皆さんですが、中には遠く福岡や京都などからご参加の皆さんも。
※.旧満州で唯一建立が許可されたハルピン市郊外の「方正日本人公墓」を支援する日本国内では唯一の民間有志団体です。
当方も理事の末席を汚させて頂いている同会の皆さんだけに、この「つれづれ草」を転送等もして頂いている大類善啓事務局長を始め顔なじみの会員の皆さんも多く、またツアー趣旨に賛同されて参加された皆さんの中にも以前からメールでやり取りさせて頂いたり、この「つれづれ草」をお読み頂いている方など、初めてお会い出来た方もあり、大変、多士済々の顔ぶればかりのツアー一行の皆さんでした。
東京新宿を朝7時半に出て、約5時間を要して記念館にお着きになった皆さんは、早速館内へ。まずは当方から記念館建設経過等のお話を、続いて元泰阜村開拓団員の「語り部」中島多鶴(なかじま・たづる)さんのお話をお聞き頂きました。その後、当方のガイドで館内展示を見て頂き、皆さん大変熱心に展示等をご覧になっておられました。
御一行は夜は阿智村内にある昼神(ひるがみ)温泉に投宿。夕食交流会には当方も参加させて頂き、皆さんの今日の感想やご自分の戦争体験、平和等に対する思いなどいろいろなお話をお聞きすることが出来ました。
翌8日、御一行は記念館から歩いて5分ほどの「長岳寺」へ。ここはあの「残留孤児の父」とも呼ばれた故山本慈昭翁が住職をお勤めになっていたお寺です。御一行はここで現住職の入(はいる)御住職よりお寺の由緒と慈昭翁のことについて説話を頂きました。この長岳寺はかの武田信玄を火葬した場所(諸説あり)とも言われており、その火葬した灰を祀ったという灰塚や、多くの犠牲を出した満州「哈達河(はたほ)」開拓団の慰霊碑等もあります。
続いて一行は中央高速にて松川町の我が「増野」へ。満州等から引き揚げた開拓者らの戦後入植地の一例として「増野開拓地」を見て頂くというのも今回のツアー目的の一つでした。当方の案内にてバスの車窓から、そして我が家の近くで下車して頂いて増野開拓地やここから望む伊那谷、3千m級の山並みが並ぶ南アルプス(赤石山脈)を眺めて頂きました。前日も含めてとても良い天気で、白く雪化粧した山々も綺麗に見て頂くことが出来ました。皆さんの日頃の行いがとても宜しかったようです。
その後、増野会所(公民館)で、戦後における開拓事業と増野の開拓について当方からお話をさせて頂きました。この席には、かつて30戸で発足した増野原開拓農業協同組合を継承する「増野開拓組合」の組合長さんや開拓2世の方、また増野開拓の後継者等で経営する「まし野ワイン」の関係者などにも参加して頂き、「まし野ワイン」や「まし野リンゴジュース」を試飲して頂きながら、後継者の皆さんの農業や地域への熱い思いに耳を傾け、意見交換等をして頂くことが出来ました。
ご一行は最後に開拓2世らが経営(当方も役員です)する「まし野ワイナリー」に立ち寄り、お土産としてワインやジュースなどを沢山お買い上げ頂いて帰途に着かれました。昨日、今日と何人かのご参加者の方からご感想など頂きましたが、記念館も増野もどちらも大変満足して頂いたということにて、現地ガイド?を勤めた当方としてもホッと一安心というところです。
「まし野ワイナリー」へと向かう皆さんとお別れし、当方は昼過ぎには再び高速で阿智村にトンボ帰り。「阿智村コミュニティーセンター」を会場として、長崎大学の主催により開催された国際シンポジウム「東アジアにおける歴史記憶の共生と研究実践」にそのパネラーとして参加いたしました。
長崎大学主催のシンポがどうして阿智村で?と怪訝に思われる向きもあるでしょうが、今回の企画の主体となった同大学の南誠助教は、実はこの阿智村の近くの平谷村出身の中国残留婦人のお孫さんに当る方です。子供の頃には2年間ほど当地にて暮らされ、京都大学の大学院を出た後、2年前から長崎大学で教鞭を取られています。当方とはもう15年ほど前からの友人であり、一緒に葫蘆島(ころとう)を訪ねたこともあり、また早い段階から当記念館にもいろいろと御助力頂いている方でもあります。
そんなご縁もあって、南助教は今回、当記念館が建てられたこと等も含め、この阿智村でのシンポをと企画された次第でした。長崎大学の先生方や、中国や台湾からも5~6人の研究者が参加され国際色豊かなシンポでした。
このシンポ、一般公開ではありましたが、周知等が余り十分では無かったこと、また記念館の方も各種イベント等が重なっていた時期であったこと等から参加者はやや少なかったものの、しかし、内容次第は極めて高度で有意義な内容のものでした。
最初に基調講演として中国社会科学院の孫歌(そんか)先生が、「感情記憶における日中関係」として題して講演されたお話は本当に流暢な日本語で、極めて内容の濃い、高度で、それでいて分かり易い内容のもので、当方も一同もみな深い感銘を受けました。孫歌先生は、この日の午前中にご覧になった当記念館についても高い評価をして頂き、その成功の原因、背景について実に極めて的確な分析をして頂いたことには当方も本当に感嘆するばかりでした。
その後、中国側の3人の研究者の先生方が発表され、最後に当方から「満蒙開拓記念館の建設の経過と趣旨」等についてお話させて頂きました。その冒頭の発表者であった石金かい(木へんに皆)さんは一昨年夏からハルピンのあの「731部隊資料館」の中に設けられた「中国人養父母資料陳列館」の運営に主として関わっていた方であり、当方とも手紙等やり取りさせて頂いた方でもあります。
石さんは今年2月から、残留孤児でもある奥さんと共に来日され、現在は所沢市にある「中国帰国者センター」で研修中です。その石さんからは、「中国人養父母資料陳列館」を立ち上げるためのご苦労やその現状等についての貴重な報告がありました。この記念館、非常に貴重な施設であり、当方もいずれ一度は訪れたいものと思っています。
また、石さん以外のお二人の中国研究者の先生方の発表は全て日本語にてであり、いずれも戦争記憶に関わる研究等について興味有る内容の濃い報告をして頂きました。そして、最後の当方からの報告については孫歌先生始め出席の先生方から当記念館の設立意義の高さ等も含めての賞賛のお言葉を頂いたことは本当にありがたい限りでした。
この夜には飯田市内にて懇親会が設けられ、中国や台湾の研究者の先生方、長崎大学の先生方等とも懇親を深め、今後、共に国境を越えて、平和の実現に向けての共同研究活動を進めていくことを約させて頂いたことも含め、極めて内容の濃い意義有る国際シンポジウムでした。
そして、昨日9日の午後には「阿智村公民館」にて、今夏製作されることとなった映画「望郷の鐘」の監督・山田火砂子さんを迎えてのトークショーが行われました。会場には阿智村の皆さんなど100名近い聴衆の皆さんが参加されました。
この映画は前出の山本慈昭翁を主人公として書かれた児童向け図書「望郷の鐘」(原作・和田登さん)を映画化するもので、監督は映画「はだしのゲン」などを撮られている山田火砂子監督。その山田監督からご自身の戦争体験や今回の映画を撮られることとなった思い等について語って頂いた後、先月で阿智村村長を退かれた岡庭一雄前村長、そして進行役として記念館のボランティア団体「ピースラボ」代表の木村多喜子さんの3人によるパネルディスカッションが繰り広げられました。
そして、その最後の総括として当方からは、今回、満蒙開拓を正面から取り上げた本格的な映画が作られるのは多分は初めてのことであろうかと思いますが、このテーマを取り上げることの難しさと、これに立ち向かうことの「覚悟」とを、当記念館の設立の経緯、背景等も絡めながらお話させて頂きました。
これまで「不都合な史実」として余り前向きには取り上げてこられなかった「満蒙開拓」をテーマとすることの「覚悟」は記念館設立にも、そして今回の映画にも通ずるものであり、そして山本慈昭翁の体験を通じて満蒙開拓を取り上げるということは挑戦でもあり、冒険でもあると思います。
実は、慈昭翁は残留孤児の支援等に懸命に取り組まれましたが、その原因となった「満蒙開拓」の背景や問題点等については生前ほとんど触れることは無かったと言います。たぶんは、それを言い出すと、開拓団を送り出した国の責任や、あるいは中国人民を刺激すること等ともなり、一番の目的である残留孤児の支援に支障を来すからと思われていたのだと思います。
そして、残留孤児の問題だけに注力して取り組むために、設立当初にはその事務局長として関わった飯田日中友好協会の前身の日中友好協会下伊那支部からも袂を分かって、自ら残留孤児に特化した「日中友好手をつなぐ会」を立ち上げてその帰国支援活動に奔走されました。
その「日中友好手をつなぐ会」も慈昭翁が亡くなり、また残留孤児等の帰国もほとんど無くなり、会員の高齢化等もあって数年前に解散してしまいました。会員の皆さんの中には「阿智村に山本慈昭記念館を」という思いもあったのですが、会員も減少、資金的にも困難な中で、阿智村での建設が具体化していた当記念館構想の中に併合することとなり、記念館内の一室に慈昭翁の顕彰も含めての残留邦人コーナーを設けることによりその遺志を引き継ぐことが果たされることになりました。
そして、今回の山田監督による「望郷の鐘」は、慈昭翁自身も生前はほとんど触れてはいなかった満蒙開拓の複雑な問題等に対する思いを映画の中で語らせるという挑戦であり冒険でもあると思います。そして、そのことに対する「覚悟」もきっと山田監督はお持ちなのだろうと思います。実は山田監督には以前にお手紙でこういった思いも伝えさせて頂いていたところでした。
これまで満州や満蒙開拓を取り上げた映画等は少なからずありました。例えば、ドキュメンタリー映画としては羽田澄子監督の「嗚呼、満蒙開拓団」や、青少年義勇軍を取り上げたアニメ「青い記憶」、あるいはなかにし礼さん原作の「赤い月」などもありました。しかし、今回の「望郷の鐘」のように満蒙開拓を正面から取り上げた本格的な映画は初めてのことであろうと思います。
既に内定している配役等も、まだインターネット等では明かせないのは残念ですが(実は会場では公表)、「えっ!”」というような素晴らしい顔ぶれの皆さんばかりです。発表は3月20日頃とのことなので、その頃にはまたこの「つれづれ草」でも取り上げさせて頂けると思います。
以上、いくつものイベントが盛り沢山であった先週末。大変有意義な3日間ではありましたが、いつもの通り当方の本業の仕事もベタ遅れ。今夜も事務所に泊まり込んでの仕事になります。明日の朝は飯田もまたマイナス7度前後の寒さになると言っています。まだ春遠しです。
(満蒙開拓平和記念館 専務理事 寺沢秀文)
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