竹本源治先生の反戦詩
- 2015/05/05
- 11:34
連休ともなり、こちら南信州も新緑がとても綺麗な季節を迎えています。
お陰様にて記念館も開館2年を経過し、その直前には来館者数6万人を突破いたしました。改めて皆様方よりのご支援等に厚く御礼申し上げたいと思います。
今年は戦後70年。当記念館としては、それが69年目であろうと71年目であろうと語り継ぐことの重要さは何ら変わらず、いつもと同じように来館者をお迎えし、平和を発信し続けていきたいと思います。
そのような中で、皆さんの中にもご存知の方も多いかも知れませんが、高知県の元教員であった竹本源治先生(故人)という方の反戦の詩をご紹介し、改めて反戦の思い、平和を語り継ぐことについてご一緒に考えて頂けたらと思います。
以下は、当方の個人配信メールです。
- 「満蒙開拓つれづれ草」 NO.162 (平成27年5月2日) -
~ 改めて竹本源治先生の詩を読む ~
(前文略)
さて、今日は、戦後70年ということをも念頭に、以前にも紹介した「竹本源治先生」という方の詩についてもう一度取り上げてみたいと思います。最近、ある方から頂いたお便りに、当方から伝えられたこの詩にとても感銘を受けたと書かれてありました。
この竹本先生の詩はこの「つれづれ草」のNO.146(「語り部」と反戦の思い)の中でも紹介させて頂いた詩であり、私も大変感銘を受けた詩です。最初にもう一度その詩を掲げます。
戦死せる教え児よ 竹本源治
逝いて還らぬ教え児よ
私の手は血まみれだ
君を縊(くび)ったその綱の
端を私も持っていた
しかも人の子の師の名において
嗚呼!
「お互いにだまされていた」の言訳が
なんでできよう
慚愧、悔恨、懺悔を重ねても
それがなんの償いになろう
逝った君はもう還らない
今ぞ私は汚濁の手をすすぎ
涙をはらって君の墓標に誓う
「繰り返さぬぞ絶対に!」
(この詩には次の反歌も添えられています)
「送らじな この身裂くとも 教え児を 理(ことわり)もなき 戦(いくさ)の庭に」
この詩を書かれた竹本先生を再紹介すると、先生は高知県の元教員で、戦中、地元の国民学校の教員だった時に子供達を戦場へと送り出した深い悔恨から詠まれた詩なのだそうです。昭和27年に作られたもので、竹本先生は昭和55年に61歳で逝去されています。この詩碑が高知市の城西公園の西側に建立されているそうです。
きっとこの竹本先生も、あるいは満蒙開拓青少年義勇軍などに子ども達を勧誘し、あるいは満州へと送り込んだ立場であり、戦後、その悔恨の思いに苦しまれたのだろうと思います。「君を縊(くび)ったその綱の端を私も持っていた」とありますが、勿論、実際に旧満州現地の集団自決であったように直に手をかけた等のわけではありません。子ども達を募り戦場へと送り込んだその行為自体を悔い、その子らを死地へと追いやった一端を担ってしまったという後悔をそう表現しているのだと思います。
最後の「繰り返さぬぞ絶対に!」という決意は、子ども達を戦場へと送り込んだ先生たちの多くが戦後噛みしめた思いでもあったはずです。戦後70年、先生たちだけでなく、全ての国民が、戦争を体験された方も、また戦後世代ももう一度、この詩を読み直してみなければならないと思います。
私たちも記念館を作ってくる過程の中で、行政関係の方などより、「当時の行政や教育界もそれが国民のため、子ども達のためになると思ってやったことであり、またそれが当時の世相でありそれに従うしか仕方なかった。だから、当時の行政や教育界のことは余り責めてくれるな」、という意見を聞かされることもありました。
それも理解出来ないわけではありません。私だって送り出す側に立てば、そうしたかも知れないからです。しかし、いつも申し上げている通り、「当時だったから仕方なかった。だからもう触れるのは止そう」ではまた同じ過ちを繰り返すことになりかねない。終わってみて、多くの犠牲を出し、それが結果として間違いであったことが確認された今、そこから目を背けるのではなく、不都合な史実にこそきちんと向き合い、二度と悲しい犠牲を出さないようにと誓うことが、多くの犠牲者に対する慰霊でもあると思います。
竹本先生が詩の中で吐露した「お互いにだまされていたの言訳がなんでできよう」という言葉は正しくその通りだと思います。「だまされていたから仕方なかった」だけでは、それにより尊い命を落とした人たちは救われないと思います。二度と悲しい犠牲を出さないために、今何をするかこそが問われるはずです。
「当時のことを何も知らない戦後生まれが気楽なことを言うな」と言われることでしょうが、しかし、戦後70年、戦争を知る人たちがいなくなっていく今、その人たちの言葉を直接聞いた我々が、今度はその言葉を、思いを、語り継いでいかなくてはならないと思います。私たちだけでなく、広島や長崎でも、沖縄でも、戦争を知らない世代がそれを語り継ぐ、その時期が来ているのだと思います。
そして、正しく「語り継ぐ」とはそういうことなのだと思います。人の体験談を聞いてそれを報告書にして、それで「はい、終わり」ではありません。語られた言葉をどのように活かし、どのようにその人たちの思いを受け継いで行動していくか、その行動があってこその「語り継ぎ」であると思います。聞きっぱなしが多い中、そういった意味では当記念館は小さな記念館ではありますが、その体験者等から語り継がれたことを平和へと結びつけていくために具現された場所であり、語り継ぎの実践の場として大きな意義を持っていると思います。
戦後70年、あの戦争を知る人たちはいなくなりつつありますが、しかしその人たちの思いを直接聞いた我々がそれを更に次の人へと語り継ぐことがこれからは重要だと思っています。私自身も、自らの直接体験ではなくとも、父や開拓団の人たちから直接聞いた話を次の人たちにお話することは十分にリアリティを持ち、説得性もあると思います。私もこの約10年間、そういったスタンスで各所でお話してきましたが、それなりにきちんと受け止めて頂けているものと自負しています。
多くの語り部の人たちの思いを、そして私事ながら亡き父の、「引き揚げてきて今度こそ本当の開拓の苦労をしてみて、中国農民たちの悔しさ、悲しさがよく分かった。あれは日本の間違いであった」という言葉を直接聞いた私たちは例え戦後生まれであっても、その思いを語り継ぐことにより戦争を風化させないための努力を積み重ねていくことが、老身にむち打って語り続けてくれた「語り部」の人たちへのご恩返しであり、旧満州の地に眠る多くの犠牲者たちに対する鎮魂であることを戦後70年の今、改めてその思いを深めています。
記念館もお陰様で開館2周年。多くの人たちの思いを語り継ぎ、平和を発信していくためにも記念館の存在意義は決して小さくないと改めて思っています。
(満蒙開拓平和記念館 専務理事 寺沢秀文)
お陰様にて記念館も開館2年を経過し、その直前には来館者数6万人を突破いたしました。改めて皆様方よりのご支援等に厚く御礼申し上げたいと思います。
今年は戦後70年。当記念館としては、それが69年目であろうと71年目であろうと語り継ぐことの重要さは何ら変わらず、いつもと同じように来館者をお迎えし、平和を発信し続けていきたいと思います。
そのような中で、皆さんの中にもご存知の方も多いかも知れませんが、高知県の元教員であった竹本源治先生(故人)という方の反戦の詩をご紹介し、改めて反戦の思い、平和を語り継ぐことについてご一緒に考えて頂けたらと思います。
以下は、当方の個人配信メールです。
- 「満蒙開拓つれづれ草」 NO.162 (平成27年5月2日) -
~ 改めて竹本源治先生の詩を読む ~
(前文略)
さて、今日は、戦後70年ということをも念頭に、以前にも紹介した「竹本源治先生」という方の詩についてもう一度取り上げてみたいと思います。最近、ある方から頂いたお便りに、当方から伝えられたこの詩にとても感銘を受けたと書かれてありました。
この竹本先生の詩はこの「つれづれ草」のNO.146(「語り部」と反戦の思い)の中でも紹介させて頂いた詩であり、私も大変感銘を受けた詩です。最初にもう一度その詩を掲げます。
戦死せる教え児よ 竹本源治
逝いて還らぬ教え児よ
私の手は血まみれだ
君を縊(くび)ったその綱の
端を私も持っていた
しかも人の子の師の名において
嗚呼!
「お互いにだまされていた」の言訳が
なんでできよう
慚愧、悔恨、懺悔を重ねても
それがなんの償いになろう
逝った君はもう還らない
今ぞ私は汚濁の手をすすぎ
涙をはらって君の墓標に誓う
「繰り返さぬぞ絶対に!」
(この詩には次の反歌も添えられています)
「送らじな この身裂くとも 教え児を 理(ことわり)もなき 戦(いくさ)の庭に」
この詩を書かれた竹本先生を再紹介すると、先生は高知県の元教員で、戦中、地元の国民学校の教員だった時に子供達を戦場へと送り出した深い悔恨から詠まれた詩なのだそうです。昭和27年に作られたもので、竹本先生は昭和55年に61歳で逝去されています。この詩碑が高知市の城西公園の西側に建立されているそうです。
きっとこの竹本先生も、あるいは満蒙開拓青少年義勇軍などに子ども達を勧誘し、あるいは満州へと送り込んだ立場であり、戦後、その悔恨の思いに苦しまれたのだろうと思います。「君を縊(くび)ったその綱の端を私も持っていた」とありますが、勿論、実際に旧満州現地の集団自決であったように直に手をかけた等のわけではありません。子ども達を募り戦場へと送り込んだその行為自体を悔い、その子らを死地へと追いやった一端を担ってしまったという後悔をそう表現しているのだと思います。
最後の「繰り返さぬぞ絶対に!」という決意は、子ども達を戦場へと送り込んだ先生たちの多くが戦後噛みしめた思いでもあったはずです。戦後70年、先生たちだけでなく、全ての国民が、戦争を体験された方も、また戦後世代ももう一度、この詩を読み直してみなければならないと思います。
私たちも記念館を作ってくる過程の中で、行政関係の方などより、「当時の行政や教育界もそれが国民のため、子ども達のためになると思ってやったことであり、またそれが当時の世相でありそれに従うしか仕方なかった。だから、当時の行政や教育界のことは余り責めてくれるな」、という意見を聞かされることもありました。
それも理解出来ないわけではありません。私だって送り出す側に立てば、そうしたかも知れないからです。しかし、いつも申し上げている通り、「当時だったから仕方なかった。だからもう触れるのは止そう」ではまた同じ過ちを繰り返すことになりかねない。終わってみて、多くの犠牲を出し、それが結果として間違いであったことが確認された今、そこから目を背けるのではなく、不都合な史実にこそきちんと向き合い、二度と悲しい犠牲を出さないようにと誓うことが、多くの犠牲者に対する慰霊でもあると思います。
竹本先生が詩の中で吐露した「お互いにだまされていたの言訳がなんでできよう」という言葉は正しくその通りだと思います。「だまされていたから仕方なかった」だけでは、それにより尊い命を落とした人たちは救われないと思います。二度と悲しい犠牲を出さないために、今何をするかこそが問われるはずです。
「当時のことを何も知らない戦後生まれが気楽なことを言うな」と言われることでしょうが、しかし、戦後70年、戦争を知る人たちがいなくなっていく今、その人たちの言葉を直接聞いた我々が、今度はその言葉を、思いを、語り継いでいかなくてはならないと思います。私たちだけでなく、広島や長崎でも、沖縄でも、戦争を知らない世代がそれを語り継ぐ、その時期が来ているのだと思います。
そして、正しく「語り継ぐ」とはそういうことなのだと思います。人の体験談を聞いてそれを報告書にして、それで「はい、終わり」ではありません。語られた言葉をどのように活かし、どのようにその人たちの思いを受け継いで行動していくか、その行動があってこその「語り継ぎ」であると思います。聞きっぱなしが多い中、そういった意味では当記念館は小さな記念館ではありますが、その体験者等から語り継がれたことを平和へと結びつけていくために具現された場所であり、語り継ぎの実践の場として大きな意義を持っていると思います。
戦後70年、あの戦争を知る人たちはいなくなりつつありますが、しかしその人たちの思いを直接聞いた我々がそれを更に次の人へと語り継ぐことがこれからは重要だと思っています。私自身も、自らの直接体験ではなくとも、父や開拓団の人たちから直接聞いた話を次の人たちにお話することは十分にリアリティを持ち、説得性もあると思います。私もこの約10年間、そういったスタンスで各所でお話してきましたが、それなりにきちんと受け止めて頂けているものと自負しています。
多くの語り部の人たちの思いを、そして私事ながら亡き父の、「引き揚げてきて今度こそ本当の開拓の苦労をしてみて、中国農民たちの悔しさ、悲しさがよく分かった。あれは日本の間違いであった」という言葉を直接聞いた私たちは例え戦後生まれであっても、その思いを語り継ぐことにより戦争を風化させないための努力を積み重ねていくことが、老身にむち打って語り続けてくれた「語り部」の人たちへのご恩返しであり、旧満州の地に眠る多くの犠牲者たちに対する鎮魂であることを戦後70年の今、改めてその思いを深めています。
記念館もお陰様で開館2周年。多くの人たちの思いを語り継ぎ、平和を発信していくためにも記念館の存在意義は決して小さくないと改めて思っています。
(満蒙開拓平和記念館 専務理事 寺沢秀文)
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