終戦直後に帰国出来た開拓団
- 2014/10/02
- 15:45
早くももう10月に入ってしまいました。御嶽山噴火には本当に驚きました。
69年前、終戦の年の今頃、旧満州では開拓団員らが厳寒の冬に向かって不安な生活を送っていた頃でした。ほとんどの開拓団員らはそのまま満洲の厳寒の中での越冬生活を迎えますが、極めて例外的なケースとして、終戦直後に日本に引き揚げてきた開拓団があります。以下は当方個人配信の「満蒙開拓つれづれ草」にて取り上げた内容です。お時間があればお読みください。
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「満蒙開拓つれづれ草」 NO.125 (平成26年9月29日)
~ 終戦直後に帰国出来た開拓団 ~
御嶽山では犠牲者の方が増え続けているようです。ただただご冥福をお祈りするばかりです。
さて、前回にも触れた通り、終戦の年のこの今頃、現地に取り残された開拓団員たちは食べる物にも事欠きながら、不安な毎日を送っていた時期でした。そして、この「つれづれ草」でも何回も繰り返している通り、開拓団のほとんどは終戦の年に日本に帰ることは出来ず、現地でその年の厳しい冬を越すこととなり、その中で沢山の犠牲者を出すことになってしまいます。
勿論、帰れなかったのは開拓団だけではなく、いち早く帰国出来た一部の人々を除いては日本人約100万人以上が満州に取り残され、酷寒の冬を迎えることになります。そのうち開拓団員は、渡満約27万人のうち終戦時の混乱の中で約1~2万人が亡くなり、そしてその年の冬を越せずに飢えや寒さ、病気等で亡くなった方が6~7万人と言われています。
終戦前後の戦禍等よりもその年の冬を越せずに飢え、寒さ、流行病等で亡くなっていった人の方が圧倒的に多いのです。冬を迎える前に日本に引き揚げることが出来ていたら、こんなにも多くの犠牲者を出すことはなかったはずです。しかし、守るべき軍隊も無く、内地にあった日本政府自体も統制力を失っている中で、現地に残された開拓団ら邦人達の越冬は困難を極めるものになってしまいました。
しかし、極めて例外的なケースですが、終戦直後に日本に引き揚げることが出来たいくつかの開拓団がありました。『満洲開拓史』(全国拓友協会編)によれば、終戦直後に下記の6つの開拓団が日本に引き揚げていると記録されています。
1.神門(みかど)郷開拓団(宮崎県より四平省双遼県へ。ソ連軍侵攻時の開拓団在団者334名)
2.祖谷(いや)郷開拓団(徳島県より四平省双遼県へ。同114名)
3.宇和島(うわじま)郷開拓団(愛媛県より四平省双遼県へ。同168名)
4.塔拉高野(読み不明。「とうら・こうや」か)開拓団(和歌山県より吉林省敦化県へ)
5.周家農工(読み不明。「しゅうか・のうこう」か)開拓団(鹿児島県、長崎県より浜江省双城県へ)
6.東寧農工大肚子(読み不明。「とうねい・のうこう・だいとうず」か)開拓団(福島県など4県より牡丹江省東寧県へ)
それぞれの開拓団の入植位置は添付の入植図(ここでは割愛)を参照として下さい(但し5,6は不明)。
このうち、1~3の四平省双遼県に入植していた3つの開拓団は以下の通りの経路を辿って、昭和20年のうちに日本に帰国しています。
まず神門開拓団は、ソ連軍侵攻のあった翌日の8月10日深夜、現地の双遼県公署から「明朝6時までに馬車160台を差し向けるので、安全地帯に避難すべし」との電話があり、翌朝、開拓団一行はその差し向けられた馬車で県公署に着きます。ここで県公署にまだ残っていた村田源次郎という副県長に団体避難を申請し、見舞金として50万円の支給を受けます。当時としてはかなりの大金です。そして、ここで同じ双遼県に入植していた祖谷、宇和島の2つの開拓団も合流し、以降、この3団は共に通化方面に避難することになります。
ここに出てくる「通化(つうか)」は旧満州国通化省の通化市、現在の吉林省通化市になります。この通化は満州国の終焉時に良く出てくる地名の一つです。満州国の崩壊時、関東軍はソ連軍侵攻と同時に新京からこの通化に司令部を移し、また満州国政府も新京からこの通化に首都を移転したとされています。満州国皇帝・愛新覚羅溥儀(映画「ラストエンペラー」の主人公)も通化省臨江県大栗子という所に避難しています。そして、日本の無条件降伏を受けて、満州国は8月17日に国の廃止を決定、翌18日には溥儀が皇帝の退位を宣言しています。通化はその間、約10日間余りだけ満州国の首都であったわけです。
2度目の廃帝となった溥儀は8月19日に通化飛行場から日本へと空路での脱出を図りますが、途中の奉天でソ連軍の空挺部隊に拘束されてしまいます。その後、溥儀はシベリアのチタの収容所に送られています。(この同じチタの捕虜収容所に亡き父も3年間囚われていました)。
当時、関東軍司令部がこの通化に移されたということで、北満やソ満国境付近に残っていた関東軍の一部や、開拓団の一部等はこの通化を目指して移動しています。この通化では終戦後にここに囚われていた日本人らが蜂起して虐殺等されてしまった「通化事件」という痛ましい事件も起きています。(昨日、記念館に名古屋から来館されていた方のお話をお伺いしていたら、偶然にも、終戦時、この通化に逃れてきていて、この「通化事件」にも遭遇したとのことにて、そのお話をお聞きしたばかりでした)。この「通化事件」についてはまた改めてこの「つれづれ草」でも触れたいと思います。
話しの続きです。神門開拓団ら3団一行は、四平街(旧四平省四平)で8月16日に貨車への乗車を許され、軍の保護を受けて、8月22日頃に通化に到着しますが、ここで一行は初めて日本の敗戦を知ることなります。一行は「命令を受けて」(誰からの命令なのかは記載なし)、国境を越えて朝鮮半島を南下し日本を目指します。途中、朝鮮人からの略奪を受けながら2週間かかって8月26日に朝鮮半島南端の釜山に到着、9月3日に釜山から興安丸(引き揚げ船としても知られた船です)に乗船、そして9月4日に仙崎港(山口県)に入港し日本への帰国を果たしています。途中、病気等により数名の死者を出したものの、ほぼ全員、3団計616名のうち604名が帰国を果たしています。かなり高い生還率です。
これとは反対に大きな犠牲を出した団もあります。上記4の「塔拉高野開拓団」は和歌山県伊都郡高野町より吉林省敦化県へ渡満した転業開拓団です。終戦後の8月24日に在団全員430名が開拓地を出て敦化へ、ここで他の開拓団の手伝い等をしていましたが、そのうちの128名がここを出て朝鮮半島を南下しての日本帰国を図ります。一行は満洲ではもう冬に入った10月27日に出発、栄養失調等で毎日多くの犠牲を出しつつ、平壌を経て、京城に着いたのが暮れの12月24日、翌年1月7日に釜山を出て、翌8日に仙崎港に辿り着いています。しかし、厳寒期の移動だったこともあり、故郷の高野町に辿り着いた時には128名が31名にまで減ってしまっていたそうです。
上記5の「周家農工開拓団」は関東軍の野戦兵器廠に勤務する軍属により構成された半農半工の開拓団でした。そのため一家の主人らとは別行動となったその家族ら53名は五常、通化、平壌、京城、釜山と南下し、9月10日に博多に上陸。53名のうち52名が無事帰国しています。
上記6の「東寧農工大肚子開拓団」は在団者171名、この開拓団は8月8日のうちに開拓地現地の駐屯軍司令官の命令により部隊内に避難、8月9日の午前3時半にはそこを出発、白頭山(ペクト山。長白山とも)を回り、現在の北朝鮮との境でもある鴨緑江(おうりょっこう)を渡河、朝鮮半島を経由して9月8日に日本の原籍地に帰着したとなっています。
これらの開拓団は極めて稀有なケースかと思います。また判明している上記4団の入植地も比較的南に近い地域、ソ満国境等からも遠く離れた地域でもあります。とかし、このような例外的な開拓団のケースを除いては、そのほとんどが旧満州に取り残されての越冬、多くの犠牲者を出すこととなります。そして、翌年になってから、何とか同胞を日本に引き揚げさせなくてはと命がけで日本に渡りGHQのマッカーサー総司令官に直訴した丸山邦雄氏ら救済代表団の3人の働きにより、ようやく邦人らが帰国出来るようになったのは翌21年の初夏からのことでした。
来る10月12日にはその丸山邦雄氏のご子息であり、その活躍等をテーマとした大作「満洲・軌跡の脱出」を書かれた日系三世のポール丸山氏らを迎えての満蒙開拓国際シンポジウムが阿智村コミュニティーセンターにて午後1時より開催されます。ご都合の着く方は是非ご来場下さい。
69年前、終戦の年の今頃、旧満州では開拓団員らが厳寒の冬に向かって不安な生活を送っていた頃でした。ほとんどの開拓団員らはそのまま満洲の厳寒の中での越冬生活を迎えますが、極めて例外的なケースとして、終戦直後に日本に引き揚げてきた開拓団があります。以下は当方個人配信の「満蒙開拓つれづれ草」にて取り上げた内容です。お時間があればお読みください。
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「満蒙開拓つれづれ草」 NO.125 (平成26年9月29日)
~ 終戦直後に帰国出来た開拓団 ~
御嶽山では犠牲者の方が増え続けているようです。ただただご冥福をお祈りするばかりです。
さて、前回にも触れた通り、終戦の年のこの今頃、現地に取り残された開拓団員たちは食べる物にも事欠きながら、不安な毎日を送っていた時期でした。そして、この「つれづれ草」でも何回も繰り返している通り、開拓団のほとんどは終戦の年に日本に帰ることは出来ず、現地でその年の厳しい冬を越すこととなり、その中で沢山の犠牲者を出すことになってしまいます。
勿論、帰れなかったのは開拓団だけではなく、いち早く帰国出来た一部の人々を除いては日本人約100万人以上が満州に取り残され、酷寒の冬を迎えることになります。そのうち開拓団員は、渡満約27万人のうち終戦時の混乱の中で約1~2万人が亡くなり、そしてその年の冬を越せずに飢えや寒さ、病気等で亡くなった方が6~7万人と言われています。
終戦前後の戦禍等よりもその年の冬を越せずに飢え、寒さ、流行病等で亡くなっていった人の方が圧倒的に多いのです。冬を迎える前に日本に引き揚げることが出来ていたら、こんなにも多くの犠牲者を出すことはなかったはずです。しかし、守るべき軍隊も無く、内地にあった日本政府自体も統制力を失っている中で、現地に残された開拓団ら邦人達の越冬は困難を極めるものになってしまいました。
しかし、極めて例外的なケースですが、終戦直後に日本に引き揚げることが出来たいくつかの開拓団がありました。『満洲開拓史』(全国拓友協会編)によれば、終戦直後に下記の6つの開拓団が日本に引き揚げていると記録されています。
1.神門(みかど)郷開拓団(宮崎県より四平省双遼県へ。ソ連軍侵攻時の開拓団在団者334名)
2.祖谷(いや)郷開拓団(徳島県より四平省双遼県へ。同114名)
3.宇和島(うわじま)郷開拓団(愛媛県より四平省双遼県へ。同168名)
4.塔拉高野(読み不明。「とうら・こうや」か)開拓団(和歌山県より吉林省敦化県へ)
5.周家農工(読み不明。「しゅうか・のうこう」か)開拓団(鹿児島県、長崎県より浜江省双城県へ)
6.東寧農工大肚子(読み不明。「とうねい・のうこう・だいとうず」か)開拓団(福島県など4県より牡丹江省東寧県へ)
それぞれの開拓団の入植位置は添付の入植図(ここでは割愛)を参照として下さい(但し5,6は不明)。
このうち、1~3の四平省双遼県に入植していた3つの開拓団は以下の通りの経路を辿って、昭和20年のうちに日本に帰国しています。
まず神門開拓団は、ソ連軍侵攻のあった翌日の8月10日深夜、現地の双遼県公署から「明朝6時までに馬車160台を差し向けるので、安全地帯に避難すべし」との電話があり、翌朝、開拓団一行はその差し向けられた馬車で県公署に着きます。ここで県公署にまだ残っていた村田源次郎という副県長に団体避難を申請し、見舞金として50万円の支給を受けます。当時としてはかなりの大金です。そして、ここで同じ双遼県に入植していた祖谷、宇和島の2つの開拓団も合流し、以降、この3団は共に通化方面に避難することになります。
ここに出てくる「通化(つうか)」は旧満州国通化省の通化市、現在の吉林省通化市になります。この通化は満州国の終焉時に良く出てくる地名の一つです。満州国の崩壊時、関東軍はソ連軍侵攻と同時に新京からこの通化に司令部を移し、また満州国政府も新京からこの通化に首都を移転したとされています。満州国皇帝・愛新覚羅溥儀(映画「ラストエンペラー」の主人公)も通化省臨江県大栗子という所に避難しています。そして、日本の無条件降伏を受けて、満州国は8月17日に国の廃止を決定、翌18日には溥儀が皇帝の退位を宣言しています。通化はその間、約10日間余りだけ満州国の首都であったわけです。
2度目の廃帝となった溥儀は8月19日に通化飛行場から日本へと空路での脱出を図りますが、途中の奉天でソ連軍の空挺部隊に拘束されてしまいます。その後、溥儀はシベリアのチタの収容所に送られています。(この同じチタの捕虜収容所に亡き父も3年間囚われていました)。
当時、関東軍司令部がこの通化に移されたということで、北満やソ満国境付近に残っていた関東軍の一部や、開拓団の一部等はこの通化を目指して移動しています。この通化では終戦後にここに囚われていた日本人らが蜂起して虐殺等されてしまった「通化事件」という痛ましい事件も起きています。(昨日、記念館に名古屋から来館されていた方のお話をお伺いしていたら、偶然にも、終戦時、この通化に逃れてきていて、この「通化事件」にも遭遇したとのことにて、そのお話をお聞きしたばかりでした)。この「通化事件」についてはまた改めてこの「つれづれ草」でも触れたいと思います。
話しの続きです。神門開拓団ら3団一行は、四平街(旧四平省四平)で8月16日に貨車への乗車を許され、軍の保護を受けて、8月22日頃に通化に到着しますが、ここで一行は初めて日本の敗戦を知ることなります。一行は「命令を受けて」(誰からの命令なのかは記載なし)、国境を越えて朝鮮半島を南下し日本を目指します。途中、朝鮮人からの略奪を受けながら2週間かかって8月26日に朝鮮半島南端の釜山に到着、9月3日に釜山から興安丸(引き揚げ船としても知られた船です)に乗船、そして9月4日に仙崎港(山口県)に入港し日本への帰国を果たしています。途中、病気等により数名の死者を出したものの、ほぼ全員、3団計616名のうち604名が帰国を果たしています。かなり高い生還率です。
これとは反対に大きな犠牲を出した団もあります。上記4の「塔拉高野開拓団」は和歌山県伊都郡高野町より吉林省敦化県へ渡満した転業開拓団です。終戦後の8月24日に在団全員430名が開拓地を出て敦化へ、ここで他の開拓団の手伝い等をしていましたが、そのうちの128名がここを出て朝鮮半島を南下しての日本帰国を図ります。一行は満洲ではもう冬に入った10月27日に出発、栄養失調等で毎日多くの犠牲を出しつつ、平壌を経て、京城に着いたのが暮れの12月24日、翌年1月7日に釜山を出て、翌8日に仙崎港に辿り着いています。しかし、厳寒期の移動だったこともあり、故郷の高野町に辿り着いた時には128名が31名にまで減ってしまっていたそうです。
上記5の「周家農工開拓団」は関東軍の野戦兵器廠に勤務する軍属により構成された半農半工の開拓団でした。そのため一家の主人らとは別行動となったその家族ら53名は五常、通化、平壌、京城、釜山と南下し、9月10日に博多に上陸。53名のうち52名が無事帰国しています。
上記6の「東寧農工大肚子開拓団」は在団者171名、この開拓団は8月8日のうちに開拓地現地の駐屯軍司令官の命令により部隊内に避難、8月9日の午前3時半にはそこを出発、白頭山(ペクト山。長白山とも)を回り、現在の北朝鮮との境でもある鴨緑江(おうりょっこう)を渡河、朝鮮半島を経由して9月8日に日本の原籍地に帰着したとなっています。
これらの開拓団は極めて稀有なケースかと思います。また判明している上記4団の入植地も比較的南に近い地域、ソ満国境等からも遠く離れた地域でもあります。とかし、このような例外的な開拓団のケースを除いては、そのほとんどが旧満州に取り残されての越冬、多くの犠牲者を出すこととなります。そして、翌年になってから、何とか同胞を日本に引き揚げさせなくてはと命がけで日本に渡りGHQのマッカーサー総司令官に直訴した丸山邦雄氏ら救済代表団の3人の働きにより、ようやく邦人らが帰国出来るようになったのは翌21年の初夏からのことでした。
来る10月12日にはその丸山邦雄氏のご子息であり、その活躍等をテーマとした大作「満洲・軌跡の脱出」を書かれた日系三世のポール丸山氏らを迎えての満蒙開拓国際シンポジウムが阿智村コミュニティーセンターにて午後1時より開催されます。ご都合の着く方は是非ご来場下さい。
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